明治8年〜大正2年ごろまでの様子
飯島小学校始まる |
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飯島小学校の跡(閑居寺,福相院) |
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小見 要氏(大2 尋22卒) |
(前略)飯島の中宿より,京知釜に出る道に添って土堤構えの一郭がある。これが元の飯島山福相院金剛寺の境内である。(中略) 西が正門で,入ると両側が桜並木が元の寺庭まで続いていたので,校舎はその並木を運動場の前にしていたように記憶している。 現在では僅かに石塔場を残すのみで,昔を偲ぶべくもないが,当時は北から東へ,椎の大木がうっそうと繁っていた大森林,校庭の方も門の入り口南の大楠,庭の東端の大楠は珍しい程の大樹。生徒3人でもまわらなかたことを覚えている。(中略) 自分等は明治も終わりに近い明治40年4月の入学だったが,学校とは名ばかりで,ほんとうに寺子屋の延長でしかなかった。それでもだんだん人数も多くなり,狭隘になったので,高学年は高釜の寺の分教場に通った様に思っている。 大正初めからの高等は札の洞泉寺と,殆ど全学年を通して,寺から寺を渡り歩いてしまった。そして2年生の2学期から,農業補習学校の名のもとに,東にも高等小学校ができ,その第1期生として大正3年3月31日卒業した・・。(後略) ※創立100周年記念誌より |
東峰 善衛氏(大3 尋23卒) |
(前略)明治41年に白鳥東尋常小学校へ入学しました。当時の学校は飯島部落の福相院という寺で,入学の同級生は20名位でした。 先生は校長先生以下3名で全校生徒100名位と記憶しています。私はこの寺へ6年間通い勉学しました。 当時の服装は粗末な着物に三尺帯,履物は,藁草履ばきで,草履の鼻緒など切れた時は三尺帯を縦にさき,鼻緒にしたものです。 教室には黒板,先生の机,それに生徒の2人掛けの「居場」という程度でした。 私はこの教場で勉学に励み,大正2年3月卒業後1年間白鳥西校の高等科に通い,大正3年白鳥東小学校に農業補習学校が現在地に併設され,そこで2年間勉学し大正5年3月卒業しました。(後略) ※創立100周年記念誌より |
菅谷 管一氏(大5 尋25卒) |
(前略)当時を思い起こせば,明治43年4月飯島福相院内小学校に入学しました。当時の建築は茅ぶきで,道路は悪く,冬はすべりやすく,春より夏は砂塵が舞い上がり,顔をおおって通学しました。しかし,桜並木の大木があり,環境は優雅で,現在の子どもたちには味わえないよさがありました。 (中略)高等小学校は,1村1校により,札へ通いました。当時一里(4km)の悪路を行くのは大変なのと,経済面で苦しいため,湖岸まで通学できない人がたくさんいました。そのため,東部地区には高等小学校の代わりに農業補習学校という名称で,2年間教育を受けました。高等小学校は義務教育ではないため,生徒数も少なかったです。 その後,高等小学校を置くことが許され,新校舎が次々と増築されました。(後略) ※創立100周年記念誌より |
福寿院 高釜校舎跡 |
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飯島 哲男氏(大7 尋27卒) |
(前略)私達は小学校生活の6年間殆ど,高釜の古寺を校舎として教授されました。 草葺屋根の真黒な建物,窓はあっても今のような硝子戸などなく,風雨の激しい時は雨も吹きこみ,昼間も暗い教室でした。しかも複式学級で,先生も骨が折れたが,児童もまた苦痛でした。(中略) 学区の住民は半農半漁で,不況のため一部地主を除いては極度に悪く,例を挙げれば雨具は雨傘毛布を使用する者は一部で,木綿の衣類を何枚か縫い合わせ「刺し子」にしたものを用い,履物といえば藁草履・竹の皮草履でした。服装は木綿縞かカスリ染めの衣類で,夏は単衣で冬寒くなければそれに裏をつけて袷(あわせ)にして着る人も多くいました。 このような有様で,父兄は子どもの教育に関心少なく,学校から帰れば,風呂の水くみ,子守,その他の雑用に追われ,復習などほとんどせず,尚,一部家庭等義務教育もせず,女子は子守奉公等にやられた例は少なくありません。私達は卒業する時,卒業生20名中女子は3人でした。今は子どもの勉強机といえば数万円もするのをどこの家庭でも使っていますが,私たちの頃は机を持っているのはわずかで,みかん箱ウドン箱の空箱でした。これを見ても当時の親たちがいかに教育に無関心だったか,生活苦に悩まされたかがうかがえます。(後略) ※創立100周年記念誌より |