昭和22年〜44年までの様子
菅谷 保行氏(昭28 新小6卒) |
(前略)私が小学校に入学したのが昭和22年戦後処理も充分に出来ておらず,食料物資の不足していた時代であり,当時の入学写真を見ると,着物を着ている人,藁草履の人等様々である。教科書などは買うのが大変なため,使えるものは進級するたびに上から順送りに利用してきました。また,雨が降ると「ケットウ」をかぶり裸足で通ったことが思い出されます。当時は現在の国道も砂利道で,そこを裸足で歩いたのだからずい分昔は野蛮だと今の子供たちは思うかもしれない。 弁当はおにぎりで毎朝囲炉裏で焼いたのを弁当にしたものです。当時は弁当を持ってくる子供ばかりはおらず,昼食抜きで学校が終わると家に帰り,乾燥芋を食べ腹を満たしたものです。その当時はどこの農家でも乾燥芋を半年位食べる量を確保しており,子供達のおやつがわりでした。 ※創立100周年記念誌より |
昭和27年までの校舎配置図 |
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![]() 昭和2年(1927)10月には,中央部にあった旧校舎を西南に移転し(図の場所),玄関職員室3教室が増築され,10学級編成となりました。この旧校舎は昭和34年(1959)に撤去されるまでの45年間の長きにわたって活躍しました。 |
菅谷 洋子氏(昭29 新小7回卒) |
(前略)当時の私たちは,戦後間もない昭和23年の春に校門をくぐったわけです。新制中学校も併置されており,都会からの疎開の人もまじえて児童数は多く,教室は超満員の状態でした。物資不足の折から,教材すら満足に求められることなく,鉛筆一本,又,画用紙等は,両面を大切に使わねばならない時代でした。(中略) 校庭の片隅は畑が耕され,さつまいものを丹精こめて収穫し,汗の結晶を試食,残りを売って学級費にするなど,さつまいも,クラスの和を広げる大きな役割を果たしました。 ※創立100周年記念誌より |
昭和30年度 白鳥東小第8回卒業生 |
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旧校舎 |
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JRCに加盟し活動する | |
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旧校舎全景(昭和42年撮影) |
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