昭和44年〜48年までの様子


昭和40年代の授業風景 業間体育の様子
昭和44年の4年生の教室です。児童数も昭和34年まで増加し,518人をピークに少しずつ減少しました。(36年=493人,40年393人,44年=296人) 昭和44年(1969)10月に撮影された業間体育の様子です。
中山 喜重郎氏(S41〜S44 教頭として在任)

 (前略)特に私の心に強く残っているもののひとつに,業間体育時の子ども達の技能の質的な高さがあります。中間発表の時の参加会員の中には,「特別な教科指導があったのでないか」といった疑問と驚きの声が投げかけられていましたが,教育はこれなのだということを痛感させられたものでした。種目別に学年毎,曜日毎に,50m走・鉄棒・マット運動・ボール運動・リズム運動とわずか15分の毎日の実践が,子ども達に驚嘆の眼を見張らせる力をつけさせていたのでした。(後略) ※創立100周年記念誌より
                                    
飯島 松枝氏(昭46卒業)

 (前略)3年生になると,白鳥東小の伝統的な行事のJRCに入ることができました。胸にバッジをつけて,みんなで得意になりましたが,かんじんの奉仕作業の方は,お留守になりがちでした。
 また,この年から給食の研究学校に指定されたために,手ふきは毎日決めてあるものを使用したり,三角食べや,給食当番になってマスク,かっぽう着,帽子をつけて並んで給食室に行ったことなどが思い出されます。

 白鳥東小学校が他の学校と違っていたのは,バトンガールがいたことと,業間体育があったことでした。バトンガールは現在もあるのでしょうか。とても懐かしく思われます。
 業間体育,これも深い思い出のひとつです。給食が終わるとすぐ体育の服装に着替えてグラウンドに飛び出したころが,今でもあざやかによみがえってきます。(後略) ※創立100周年記念誌より


楽しい給食風景(1年生) 西校舎
昭和42年(1967),学校給食研究校として,県教委より指定された当時の学校給食の様子です。教室の食堂化につとめ,テーブルセンター・花・配膳の仕方などに工夫をこらしました。昭和44年(1969)には学校給食全国大会で発表し,46年(1971)には,「学校給食『運営と指導』優秀校として文部大臣より表彰されました。 昭和42年の頃の西校舎です。現在,この跡は,プールになっています(平成14年にプール使用停止)。

未舗装時の学校前国道51号線 国道51号線白鳥東歩道橋完成
未舗装だった国道51号線も,昭和42年(1967)には拡張舗装工事が始まりました。 昭和43年(1968)4月6日に渡初式が行われました。
中山 喜重郎氏(S41.4〜44.3 教頭として在任)
                            
 (前略)松の自然林を校庭の東隅に生かし,舎前には花壇,校庭には芝生が整然としつらえられ,落ち着いた色で塗装された校舎が,学校としての品格を持っていました。(中略)

 当時は,鹿島港建設の最盛期で,防波堤基礎工事用の岩石を積んだダンプカーの通行が激しく,時々積荷の岩石を落としたり,通過後の路上は,さながらホコリの海の底のようで,国道51号線を通学路とする子ども達にはとても危険がいっぱいでした。(後略) ※創立100周年記念誌より
                                      

高釜幼稚園 開園
昭和46年(1971)4月に高釜幼稚園が小学校に併設され,開園しました。19年間存続した後,平成2年(1990)6月に「つばさ幼稚園」に統合されました。現在は倉庫として活用しています。
元白鳥東小学校長 糸川 順一郎氏(S45.4〜S49.3在任)
                  
 (前略)46年春から高釜幼稚園がスタートし,秋には村いちばんモダンな園舎もでき白鳥学区も大分近代化してきた。(後略) ※創立100周年記念誌より
                                   

昭和46年 春の小運動会 昭和48年 運動会
昭和40年代のころの運動会の写真です。昭和48年の年だけ,新校舎建築の関係で5月に運動会が行われました。