大正3年〜昭和21年までの様子


大正3年 校舎配置図
大正3年(1914)4月,高釜飯島両校舎を統合,現校地に校舎を移転改築し,3学級編成でスタートしました。この時の通用門が,現在の正門です。同年11月には,高釜寺院を仮校舎として,白鳥東農業補習学校(高等科に順ずる)が設置され,開校しました。

大正7年 尋常小学校第27回卒業生
大正7年(1918)6月には,西校舎2教室を増築し,5学級編成となりました。
小野 武氏(大14 高2卒)

 (前略)大正6年,隣の上級生に導かれて,初めて入学した当時は実にご粗末な学校であった。
 運動場は狭く,遊び道具は何一つなく,教室は3教室の外,小さな教員室兼応接室と,ほかに普通教室の半分位の室に補習科生1年・2年が1室に入り,確か20数名位だった。その内女生徒は4・5名位でしかなかった。屋根はコバ屋根で,1年生が1教室で,ほか2教室は2学級ずつ入り,1教室は高釜の福寿院に通う様な事で,まさに寺子屋に毛が生えた程度であった。(中略)

 この様な設備の中で,一番寒中の授業がつらかった事が思い出される。
 朝,机を開けば,習字の残り水はすずりの中で凍っており,縁のすき間風は,小さな足が痛いので,足を交互に踏みつけて1時間辛抱したものだが,その一時間が実に長かった,

 それでも元気なもので,運動場に出れば,家で作った藁草履で運動場を駆け回り,運道具のない当時のことであれば,相撲をとったり,砂をほったりして,それで何の不足もなく,楽しく過ごした事のあった幼い時代が俺にもあったのかと思うくらいである。

 この様に狭隘其のものなので,大正7年旧校舎の西側に2教室1棟建てられた。
 この日,先生に幾つかの撒き餅を分けてもらい, 早々と帰されたのであるが,翌朝登校して見れば,昨日立派に建てられた校舎が夕べの風で倒れており,大勢の大人達が集まっていた。子供心にも今に新しい校舎に入れる事を夢みていたのに無残な姿にがっかりした。

 更に11年8月,同様1棟が新築された。翌12年,補習科が高等科に昇格し,生徒数も次第に増えて,昭和2年又1棟新築され,そして戦後の急増により,28年・34年と次々と新校舎が建てられた。

 46年には幼稚園が併設され,まさに学園ともに充実せるの感があった。(後略) ※創立100周年記念誌より


大正9年の修学旅行(大洗海岸にて)
大正9年(1920)10月14日より,三日間水戸市共進会見学を中心に,湊・大洗方面に修学旅行をしました。
飯岡 ヤス子氏(大9 尋29卒)

 (前略)大正9年10月,私達として初めての修学旅行だったのです。尋常小学6年生と農業補習科1・2年生の合同旅行でした。

 土浦・水戸・那珂湊・大洗で2泊3日です。現在で県内を2泊3日なんて笑われるかもしれませんが,交通の不便だった当時は致し方がなかったのかも知れません。又,地理の勉強だったかと思います。

 先づ午前2時頃学校を出発して堤燈のあかりで徒歩で札まで行き,渡船で山田に渡り山田より行方郡を横断して井上という霞ヶ浦辺に暗い夜道のぬかるみ道をはだしで歩いて,井上に着いた時は明るくなりました。学校から井上までは3里ですから12kmの夜道を嬉しさ一杯で疲れも忘れて歩いたのです。
 
 井上の汽船扱所も昔は蒸気宿といいました。そこから土浦行きの汽船に乗り霞ヶ浦の三ツ又沖を航行して土浦に着き,土浦より汽車で水戸に着き,共進会・展覧会・県庁・公園と見学して駅前の太平館ホテルに一日目の旅を終わりましたが,この一日は見るもの聞くもの只珍しく何もかも始めての事ですので言葉で表現できなかった位です。嬉しかった。宿に着いても種々のエピソードもありました。水戸の夜の明るさにも驚いたようでした。

 2日目は水戸より那珂湊町(現在は市)まで又徒歩で来て漁港見学をして海門橋を渡り大洗町の魚来庵という一流旅館に2晩目の宿に入りました。

 私共海岸で生まれ育った者でも大洗の海岸は風景が違うので珍し飛び歩いた様に記憶しています。先生より明日は強行軍だから早く寝るようにお話があってもなかなか眠れませんでした。

 3日目いよいよ帰宅,海岸沿いに7里(28km)歩くのですから大へんなことと思ったら意外に皆競争的になって割合早く着きました。(後略) ※創立100周年記念誌より


下沢 幸子氏(昭15 尋49卒)

 (前略)・・福祉と云えば,やはり学期に一度,給食もありました。切り昆布と油揚げの煮たのや,地方語で言えば塩引きのゆでたのが出て,皆遠慮しながら食べたようです。

 昭和12年頃,ミイラを見せに来ました。今なら博物館見学という事になりましょうが,膝を折り抱えた老人と赤ん坊の2体,飴色をしていたように記憶しています。附属物を置いた音楽室の腰かけ等は,後日まで気味悪がって誰も腰掛ける者はありませんでした。 ※創立100周年記念誌より


元白鳥東小学校長 中根 高男氏(S14.4〜S25.3訓導 S38.4〜S41.3校長)

 (前略)私は,昭和14年から前後2回,通算14年在職しました。支那事変から大東亜戦争にエスカレートしていく最中,学校も戦時色を濃厚にしていく時期で,毎日がピーンと張り切って居りました。(中略)

 赴任草々の思い出の中に,学校に電燈が灯っていなかったことは,毎日の苦労のひとつでした。その日の残務整理は,風呂敷包みにして自宅でする他,方法はありません。宿直の晩など事務や勉強は,薄暗いランプの下でやるために,一時間もすると鼻の穴は,油煙で真黒でした。(後略) ※創立100周年記念誌より


昭和20年度国民学校初等科第4回卒業生
終戦間もないころの卒業時の写真です。
元白鳥東国民学校長 沼田 進氏(S19.3〜S22.4在任)
                                
 (前略)私が当校に赴任いたしました昭和19年頃は敗戦の色が濃く,学校の頭上をB29が昼夜の区別なく本土襲撃の往復の通路となり,1日中前の山の防空壕の中に児童と共に過ごしたことを現在でもまざまざと思い出されます。

 丁度19年4月より19年10月迄の7ヶ月間ランプの生活をして電灯会社への電化運動の陳情書書き,10月に入ってやっと電灯が東部全域に点灯されたのも当時の村有力者の努力の賜物であったと感謝しております。そして学校は文化の中心であるからという理由で他部落よりも1ヶ月位早く点灯されました。

 終戦10ヶ月位前になると,校舎の半分は軍隊に貸し,児童は二部授業同様の毎日の連続でした。高等科の児童達は担任に引率され,終日塩作り作業で海岸での生活。運動場は所せましと耕され,僅かに10平方米位を体操場に当てられ,やせおとろえたさつまいもが収穫されました。(中略)

 ・・毎日のように進駐軍が学校に乗り込んで,戦時色一掃に目を光らせ,教科書・参考書・掛図類等から,戦争の語句等総ては抹消され,殊に青年学校の諸備品はことごとく焼却の運命に会いました。(中略)

 戦争で疎開していた人達は帰りましたが,物資不足のため,運動靴や長靴は,配給制度で思うようには買えず,下駄ばきでの登校でした。

 教科書も兄や姉のお古,給食もなく,毎日が日の丸弁当でした。たまに出版された教科書は新聞紙同様で,すぐ敗れてしまい使用に困却したものでした。今では考えられないような生活でした。 ※創立100周年記念誌より